二十四節気 第11番【 小暑(しょうしょ)】
梅雨が明け、暑さが本格的になる頃。
例年では梅雨明けと重なることが多く、セミも鳴き始め、陽射しの強さも一層増してきます。
肌感では、いよいよ夏本番と感じる時期になりますが、【小暑】は<晩夏>。
暦の上では夏の終わりになります。
【小暑】から、次候の【大暑(たいしょ)】の1ケ月が一年で一番暑い時期になります。
それでは、「処暑」の頃のおおまかな行事をご紹介いたします。
●七夕の節句(笹竹の節句)
●暑中見舞い
小暑の頃は、前節気で「夏至」を迎えたことで、季節の節目(「二至二分」)や「夏越の祓(なごしのはらえ)」の祈願・祈祷を済ませ、これから、本格的な夏・下半期を迎えていくことになります。
そうした習わしを終えたのちの、「小暑」「大暑」の時期のことを「暑中」と言い、「暑中見舞い」を出すのもこの頃になります。
七夕の節句(笹竹の節句)
七夕は織姫星と彦星が、年に一度だけ天の川を渡り、会うことが許された特別な日です。 京都の北野天満宮での七夕祭り、香川の金刀比羅宮での七夕蹴鞠など、各地で様々な七夕行事が行われます。
七夕は、女性の機織りや針仕事の上達を祈る行事として行われました。奈良時代の日本では宮中行事として取り入れられるようになり、現代まで残ります。
七夕節句の飾り物には七夕竹を飾ります。天の神様へ向けた目印として飾り、短冊に和歌などを書いて飾るのが一般的でしたが、現代では願い事を書き、結びつけるのが主流となっています。笹は邪気を払う効果があるとされていたことから使われるようになったとされています。
暑中見舞い
暑中見舞いは、季節にちなんだ挨拶をする中で、相手の健康への気遣いをしたためるもので、年賀状などと同じ役割を持ちます。
元々、暑中見舞いを贈る習慣が生まれたのは、江戸時代だと言われています。お盆に先祖の霊に供える品を持って里帰りをする習慣に由来し、そこから「夏の挨拶状」という形が定着しました。その後、郵便制度の発達とともに内容が簡素化され、挨拶状のみを送る習慣へと変化していき、大正時代には現在の「暑中見舞い」の形となりました。
お中元と暑中見舞いは同じ時期に贈りますが、それぞれ生まれた背景や意味合いなどに違いがあります。
◆お中元と暑中見舞いの違いは?
●お中元
お中元は、中国の暦に由来し、中国では旧暦7月15日を「中元」と呼んでいます。中元は罪を償う日とされ、神様に祈るために供物をささげていました。日本に伝わった後、日頃お世話になった人へ感謝を伝えるために贈り物を贈るという習慣に変わっていきます。
現在のお中元は、上半期の感謝の気持ちを伝えるという意味と下半期の健康を祈るという意味が込められており、両親や親戚、仲人、恩師、取引先のような日頃お世話になっている人に品物を贈る習慣として定着しています。
●暑中見舞い
暑中見舞いは、先ほど述べた通り、年賀状などと同じく季節の挨拶状であり、由来はお盆の風習にあります。
お盆の風習が簡略化され、お世話になった方へ贈答品や手紙などを贈るようになりました。
◆お中元・暑中見舞いの贈る時期は?
お中元の贈る時期は、現在では7月初旬から7月15日頃までを贈る時期とされていますが、地域によってその期間は異なります。
暑中見舞いは、どの地域でも小暑から立秋頃までと言われています。
また、7月中に訪れる【小暑】【大暑(たいしょ)】の期間は暑中見舞いであり、8月初頭に【立秋(りっしゅう)】を迎えた頃からは「残暑見舞い」になるため、注意が必要です。
【 小暑 】頃の七十二候では下記のように表されております。
初候<温風至(あつかぜいたる)>
雲の間から注ぐ陽がだんだんと強くなる頃。
温風至(あつかぜいたる)のあつかぜは、「温風」というより、南からの熱をはらんだ風が吹くので「熱風」と言った方がしっくりくるかもしれません。また、そうした南風を、梅雨明け頃に吹く風の事を白南風(しらはえ)と呼び、梅雨の初めに黒い雨雲の下を吹く南風を「黒南風(くろはえ)」呼びます。
次候<蓮始開(はすはじめてひらく)>
蓮(ハス)の花が開き始める頃。
ハスの花は夜明けとともに咲き始め、お昼には閉じてしまいます。また、開き始めてから散ってしまうまでが4日ほどと短命な花なので、朝のお散歩などで早起きして鑑賞するのがおススメです。
末候<鷹乃学習(たかすなわちわざをなす)>
5月、6月に孵化した雛が、巣立ちの準備をする頃。
鷹が、独り立ちができるように飛び方を覚え、獲物の捕り方を覚え、一人前の鷹へと成長していく時期をさします。
鷹狩りという狩りの手法がありますが、発祥は古く、「日本書紀」に記述があり、四世紀ごろには日本に伝来していたとされます。また、戦国大名のスポーツとして見なされるようになり、鷹狩のための独特な装束が用いられるなど、一つの文化が形成されています。中でも、徳川家康は鷹狩りを趣味とし、幕府の年中行事の一つとなったと伝えられ、単なる娯楽というだけでなく、民情視察や共に戦を闘い抜くための親交の一環だったと考えられています。鷹狩りで捕れた鳥や小動物を鍋にし、それらを一緒に食すまでが楽しみの一つだったようです。
そうして、人の生活と密接に結びついてきた鷹は、七十三候として伝えられるように、季節を知る目印になっているのです。