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端午の節句とは

 
「端午の節句」は、節句の中で、とりわけ「男の子」に向けたお祝いの日。

 

さわやかな風薫る新緑の季節。
端午の節句には、鯉のぼりや五月人形を飾り、生まれてきたお子さまが「人生の幸福が得られるように」「災いが降りかからないように」という願いや、無事に成長し、強く逞しく生きられるようにと、思いを込めて贈ります。

また、お祝い食や柏餅を食べたりする風習を楽しみながら、家族で一緒に過ごす大切な日です。
端午の節句は、時代を超えて日本の家庭で受け継がれ、その思いが今日まで続く、お節句文化となりました。

  • 1.「節句」季節の節目

     

     

    節句は、もともと季節の変わり目に合わせた行事です。
    その節目は、つなぎ目として脆く「邪気」や「鬼」が入ってくると言われ、悪い運気や病気、不幸をもたらすものとして信じられていました。

    古代の日本では、季節の変化に伴い、自然の力や邪気(悪い気)を取り除き、健康を守り、生活を整えることが大切だと考えられていました。節句はそのために設けられた行事であり、厳しい季節の変化に備えるため、また、家族全員が健康で過ごせるようにと、邪気を払う意味合いを持っています。

    実際に季節の変わり目には、多くの人が体調を崩しやすく、昔は、生まれてすぐの赤ちゃんは命を落としてしまうことも多かったため、産まれて初めてのお節句を「初節句」として、厄除けや邪気を払うだけでなく、生きる力を祝福し、健やかな成長や家族の繁栄を祈り祝福しました。

  • 2.初節句とは

     
    無事に生まれ、初めての節句「初節句」を迎えることが非常に大きな意味を持っていました。

    医学が発展していない時代には、子どもが無事に育つことが非常に難しい時代もありました。疫病や栄養失調、外的な環境要因、医療の不足など、子どもたちが早く命を落とすことが多かったため、無事に成長することが奇跡的な出来事と捉えられていました。
    江戸時代頃になっても、農村部などでは子どもの死亡率が高く、母子ともに命を落とすケースも少なくありませんでした。そのため、初節句のような儀式を行うことが、単なる伝統行事だけでなく、生きる力を祝福し、今後の健康を祈るための重要な儀式とされていました。無事に初節句を迎えることは、生命の奇跡を祝う意味が強かったのです。
    また、初節句の行事は、単に祝いごとの意味合いだけでなく、「7歳までは神の子」と言われるように、神聖な儀式の側面もありました。子どもが生まれると、その命は神々の恩恵として祝福されると考えられていました。初節句を迎えることで、子どもは「神の子」として、無事に成長できるように祈願されます。
    こうした考えは、子どもを守るために神々に感謝し、今後の健康や長寿を願う儀式的な意味を含んでいました。

    現代においては、医療の発展や生活水準の向上により、子どもの生存率は格段に向上しています。そのため、初節句は今では主に「子どもの成長を祝う楽しいイベント」として行われることが多くなっていますが、昔の時代にはその背後に「命を守り、長生きしてほしい」という深い願いが込められていたことが理解できます。

    特に、古代から中世にかけては、成人するまで無事に育つことが非常に難しく、神様の加護をお願いすることが重要視されていたため、初節句のような儀式が重要な役割を果たしました。

    節句だけでなく、産まれてから一年間にお祝い行事が多いのは、新しい生命の健やかな成長を祈ると共に、古来より、伝統的な儀式や習慣を通して、赤ちゃんを新しい家族として受け入れ、家族のつながりを深める重要な行事として大切にされてきました。

  • 3.端午の節句

     

    五節句の一つでもある「端午の節句」
    古代中国から伝わり、日本での文化と結び付きながら独自の形をとって発展し、今日まで続く、お節句行事となりました。

    先述の通り、もともとは季節の変わり目を祝うための行事として起源を持ち、次第に男の子の健康や成長を祈る日として定着しました。

     


    1. 端午の節句の起源 

    中国では、端午節は 陰暦5月5日 に行われる行事で、邪気を払うために龍舟(りゅうしゅう)を漕ぐ競技や、薬草を用いて病気や悪霊を追い払う風習があります。この日は、夏の始まり疫病退散を願うための行事で、鬼を追い払うという意味も込められていました。

    中国で端午節は、紀元前の時代に始まったとされています。

     

    2. 日本に伝わる

    端午の節句が日本に伝わったのは、6世紀頃(550年ごろの古墳時代)と言われます。中国からの仏教や文化の影響を受けた時期です。日本では、当初は季節の変わり目の節句として行われていましたが、次第に男の子の成長や健康を祈る日として特別視されるようになりました。


    「端午」は、月初めの「午(うま)の日」という意味ですが、「午」と「五」の読み方が同じため、5月5日を端午の節句とし、奈良時代以降、5月5日が端午の節句として定着しました。

    日本における端午の節句の最初の記録は、平安時代にさかのぼります。
    この時期、端午の節句は宮廷行事として、貴族の間で盛大に行われるようになりました。端午の節句は、もともとは中国の端午節と似たように、邪気を払うことを目的としており、また、五毒(毒のある生き物や病気)を追い払うための儀式が行われました。薬草を使った祈りや、水浴をすることが行われており、これが次第に日本での菖蒲湯の習慣や、邪気払いの風習に繋がっています。


    江戸時代に入り、勢力の中心が貴族から武家に移るとともに、「菖蒲(しょうぶ)」の音が、武を重んじる「尚武(しょうぶ)」と同じであることから、「端午の節句」は、「尚武(しょうぶ)」の節句として、武家の間で盛んに祝われるようになります。
    当時の将軍家では、男の子が誕生すると「馬印」や「のぼり」で祝う風習がありました。この風習が武士や庶民にも受け継がれ、「こいのぼり」や「五月人形」「兜」を飾る風習へと変化していきます。
    家の後継ぎとして生れた男の子が無事成長していくことを祈り、一族の繁栄を願う重要な行事となり、現代まで男の子の誕生と成長を祝う日として伝わりました。

  • 4.五月人形を飾る由来・意味

     

     

    ◆五月人形を飾る
     

    主に武者人形として飾られることが多く、戦士や武士、歴史上の英雄などがデザインのモデルになることが多いのが特徴です。
    基本的に、鎧や兜は、武道戦いの象徴であり、男の子が将来、困難に直面しても強く、勇敢に生き抜くことを願う意味があります。
    しかし、裏を返せば、武将にとって兜や甲冑は、身を護る大事な装備になります。
    五月人形の兜や甲冑を飾るのは。強く生き抜いてほしいという願いだけでなく、「わが子を守ってくれますように」という思いも同時に込められているのです。


    現在の5月はさわやかな初夏ですが、旧暦5月は現在の6月にあたります。つまり旧暦5月の中旬以降は、梅雨の時期となります。「端午」は、旧暦5月の最初の午(うま)の日を意味します。

    鎌倉時代になると、武家では端午の季節、梅雨を目前に武具へ風を通し・虫干しと手入れをするために「鎧」や「兜」を蔵から出して、家に飾る習慣がありました。
    武士の家では武具鎧兜は非常に重要なものであり、これをきちんと管理することが家の安定や家族の繁栄に直結すると考えられていました。
    端午の節句に合わせて、武具を家族の前に飾ることは、その年の戦いに向けての準備や健康を祈る意味を持つようになったのです。

     

     

    この武具を干す行為と端午の節句が重なることで、武具の強さや勇気の象徴として、五月人形が飾られるようになったと考えられています。次第に庶民の間にも広まり、現代では「五月人形」という形で男の子の成長を祝う行事として定着していきました。


     

  • 5.鯉のぼりを飾る由来・意味

     

    もともと日本では、将軍に男の子が生まれると旗指物(家紋のついた旗)や幟(のぼり)を立てて祝う風習がありました。やがて武家に広がり、男の子が生まれた印として幟を揚げるようになり、【端午の節句】には幟と、虫干しを兼ねて、鎧や兜を飾るのが習わしとなります。

    江戸の裕福な商家では、そんな武家を模して、武具の模造品を飾るようになり、それが町人の間に広がった時、「立身出世※」のシンボルであった「鯉」を幟にするアイデアがうまれ【鯉のぼり】となりました。

    (※「立身出世」とは?
    中国の「登竜門」、日本では「鯉の滝登り」として有名な伝説に由来しています。
    (中国の黄河上流に竜門という激流が連なる滝があり、そこを登り切った魚は霊力が宿って龍になるといわれていました。その滝を登るほどの勢いのある淡水魚は鯉をおいて他になく、ある時一匹の鯉が激しい滝水に逆らいながら竜門を登りきったところ、鯉は龍へと変身して天に昇っていったという伝お話です。中国では龍は皇帝の象徴でもあり、とても縁起のいいものです。)

    本来、鯉は沼や池といった清流以外の場所でも生きられる丈夫な魚でもあります。そのような鯉の性質から、

    【人生という流れの中で、
    難関を鯉のように突破してほしい。
    逆境でも頑張り抜ける強い人に成長してほしい。】


    という願いも込められていました。
    (そう言われる通り、実際に鯉のぼりは逆風こそ力強く泳ぐので、近年では復興のシンボルとしても使用されることも多くあります。)

    時代が変わり続ける中で、本来の意味合いを、より一層強くしているように思う近年。変わりゆく時代の中でも、親の思いは変わりません。

     

  • 6.端午の節句と子どもの日


    1948年に5月5日が「こどもの日」として制定さたことで、男女問わず子ども達の幸福を願い、母にも感謝しようという意味を込めた国民の祝日になりました。

    由来としては。第二次世界大戦後、日本はアメリカを中心とする連合国、GHQが日本の政治や社会の改革を行いました。GHQは日本の民主化を進めるため、さまざまな政策を実施し、その中には、戦前の軍国主義的な色彩を払拭し、平和主義と民主主義の理念を根付かせることが含まれていました。

    その一環として、「端午の節句」という伝統的な行事を改めることが提案され、これが「子どもの日」に変わることになりました。

    敗戦から半世紀以上が経ち、同じく子どもの日となった今日でも、「端午の節句」のお祝いをする、日本文化の礎を感じます。

    そうして、「端午の節句」と「こどもの日」のいわれは違いますが、古くからの願いや伝統を享受しながら、これからの成長と幸せを願うお祝いの日となります。

  • 7.何歳まで飾るの?

     

    節句のお飾りを飾る年齢について、特に厳密なルールはありませんが、一般的には7歳ごろまで飾ると良いと言われています。

    「七歳までは神の子」という言葉がありますが、こどもの神聖さや無垢さを守りたいという思いから、神の加護を祈る意味や、日本の伝統において、7歳は成長の大きな節目とされる年齢であり、「七五三」という行事があるように、子どもにとって7歳は特に重要な節目になります。
    ですので、7歳まで飾るというご家庭が多くあります。

    最近では、子どもが大きくなった後でも記念として飾り続ける家が増えており、年齢の制限はないので、ひとり立ちしたタイミングで飾らなくなるご家庭や、季節の飾りとしての役割に変えて飾られるご家族も多いです。

  •  

     

    男の子を持つご家族が成長と幸福を祈る文化、端午の節句。

    初節句から大人になっても楽しめる文化として、
    いつまでもお祝いをお楽しみいただきたいと思っています。